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≪CCKビジネス/ものづくりお役立ち市場メールマガジン≫
 

≪ビジネス/ものづくりお役立ち市場 マガジン  vol. 002 ≫


1.第2文明、第3文明を形成させたプロトテクノロジー (1)

      1.1. 「連載 1」

キャリア・コンサルタント協同組合 風 巻  融

 

 文明には型があるとされている。ここでいう「第2文明」とは、文明を四つのパラダイムに分け、第1文明から第4文明に当てはめ、その第2の文明のパラダイムを意味する。第1から第4までの文明のパラダイムは、時系列に従って順次に現れ、共存しながら今日に至っている。  第2文明のパラダイムは、ある時代を画するテクノロジーの出現によって産み出された。ドラッカーとトフラーは、それが灌漑農業というプロトテクノロジーであったという。かれらはプロトテクノロジーということばは使っていない。 灌漑農業によって、生産者が自己消費する以上の余剰農産物を生産できるようになったことが、貯蔵や運搬のテクノロジーの開発をうながし、富の形成と交換という社会システムの成熟をもたらした。

 平行して、蓄積した富を侵害から護る軍隊や、管理運営するための法の発明・整備、法の立案、執行の権力の形成と集中が行われた。その形態、生態は幾多の変遷、改良を繰り返し現代においても継続している。 それは、灌漑農業というプロトテクノロジーをもとにイノベーションを繰り返してきたからにほかならない。実に、灌漑文明によって富の蓄積に成功した国だけが、自力で第3文明の国へと変遷して行くことを可能にしている。 1957年、梅棹忠夫は、『文明の生態史観』で、文明の形成に砂漠の地勢が関与していることについて指摘している。文化人類学という領域を拓き、それまでの歴史学や考古学を基盤として、時系列上に未開・野蛮から「進歩」「進化」を対置させた文明論のパラダイムからの離別を図るとともに、文明の変遷の原理をしめしたといわれている。

 

梅棹忠夫という方はなにしろ学問的、思想的に猛烈な方で、理学博士でありながら、数多くのフィールドワークを通じて独自の文化人類学を拓いた方で文化勲章を始め多くの褒賞もうけておられる。私も大学院在学中にその著作にふれ、最も強くインスパイアされ、自分の研究課題を大きく転換した一人である。1963年には『情報産業論』を発表(トフラーやドラッカーより早い)、1988年には、環境に制約された文明は、やがて、環境の制約を離れ、環境に情報が取って代わり、情報を中心とした文明になると、情報文明論『情報の文明学』、『情報論ノート』で述べた。いずれその根幹となるものにふれる機会を得たい。情報を中心とした文明というパラダイムは、私のいう第4文明のパラダイムであり、第4文明のパラダイムを基盤的にささえる情報・通信のテクノロジーに依拠しているからである。

  アーノルド・J・トインビーは、文明とは、人々によって強く識別される広範囲な地域のアイデンティティーに相当し、家族・部族・故郷・国家・地域などよりも広い強固な文化的同一性であるとした。この定義は、これからも活きいきとしたかたちで護られて欲しいものである。西欧中心の歴史観でなく、イスラム、仏教、それに特殊な存在としての日本にも着目して、各文明国の発展を描いた『歴史の研究』(原著1934-1961年、邦訳全25巻、1966-1972年)を著した。西欧中心の歴史観でないことが好感されて、戦後の歴史学、文明論研究に大きな影響をのこした。西欧中心の歴史観の特徴は、自国文化中心に徹していることにあり、今日においてもその悪影響から脱しきれないことにある。 近代西欧における「歴史の進歩」という考えは、未開から段階を踏んで高度な文明に達するという直線的・時系列的進歩への単純な信仰と、文明的西欧、半未開あるいは半文明のアジア諸国、未開のその他地域という地理的差別とを重ね合わせた。啓蒙主義の時代には、文明は野蛮を征服し教化するものであり、またそうすべきであると考え、また対外的な侵略と支配を正当化した。

 19世紀には進化論が大きな役割を果たし、社会進化論を生み出して、文明と野蛮について説明するようにすらなった。本来「進化」には文明においても、テクノロジーにおいても、下等から高等へと直線的に段階を経ることはなく、また進化しなかったものが劣っているということではない。ぞれぞれの環境においてどのように適応したかを考察するものであるべきものが自国文化中心主義によって歪曲されたものへ逸脱する結果を招いた。これは第3文明のパラダイムへと変遷したあとにも継続している。 第3文明のパラダイムへの転換は、世にいう産業革命の時期に生まれた新しいプロトテクノロジーによってもたらされた。

 グーテンベルクの印刷テクノロジーによって、知識の大量再生産が可能になり、先進知識、基礎知識の伝播が促進されたこと、ワットの蒸気機関の実用化によって、産業動力源が革新されて量産技術が進歩したこと、化学産業が勃興し、高炉の発明によって鋼材の大量生産が可能になり、鉄道システムの出現により流通システムが確信されるなど、枚挙にいとまのないプロトテクノロジーの出現とそれによるイノベーションが行われたことによる。グーテンベルクの印刷テクノロジーを利用した最初の大規模プロジェクトであったエンサイクロペディアの出版事業は、新プロトテクノロジーの知識を普及させただけでなく、デカルトに代表される近代合理主義思想を普及させたといわれる。

 

 第3文明のパラダイムを特徴づけるものとして、石油を主力とした化石燃料をエネルギーとするテクノロジーと石油から誘導された産業用材料テクノロジーの開発、多様な金属材料、合金材料の開発、自動車・航空機などの輸送用機械の革新、半導体物質、半導体デバイステクノロジーの開発、そして、半導体デバイステクノロジーと光通信・デジタルネットワークとデジタルコンピュータの一体的な開発、バイオテクノロジーの開発、世界物流システムテクノロジーなどの新世代のプロトテクノロジーを加えて、テクノロジーの進歩は莫大な富の生産能力を手中にした。 その結果、経済的繁栄のパラダイムとしての第3文明のパラダイムを発展させてきたが、その陰で、二度の世界規模での戦乱を始めとする、文明の衝突と呼ばれる数多くの戦乱と新しい貧困の固定化から逃れられなくなっている。さらに深刻な危機である地球温暖化の進行を招き、もはや地球全体の熱力学的PNR(Point of No-Return)を超えてしまったのではないかと危惧されるにいたっている。文明の危機には、さらに金融市場の巨大化があるであろう。 21世紀になって、第4文明のパラダイムへと変遷しなければならないにもかかわらず、第2、第3文明のパラダイムは、当然のことではあるにせよ、未だに健在である。しかし突破口を拓くのは新しいテクノロジーの開発以外にないと思う。


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      1.2. 第2文明、第3文明を形成させたプロトテクノロジー (2)

「連載 2」

キャリア・コンサルタント協同組合 風 巻  融

 文明と呼ばれるものは、その文明としての構成要件を満たしている必要がある。英語のcivilizationの日本語訳が文明とされた。Civilizationの語源は、ラテン語のcivilitasに由来するものとされ、「都市」とか「国家」を意味し、ロ?マ時代において文明とは「都市生活」のことであったとされる。明治に、何故か日本ではcivil engineering を土木工学と訳してしまった。 

 そのとき、近代都市社会とテクノロジーを統合する理念を失い、国のインフラストラクチャを計画するべき、先端的役割を失なわしめてしまった。東京の道路率(面積比)は7%に過ぎず、たとえばワシントンDCの14%に比べて2分の1に留まり、約2倍の走行車量数は随所で渋滞をもたらし、道路率の低さは危険廃屋の放置を生ぜしめている。 

 

東京、京浜、京葉で消費される電力の供給基地が、新潟県や福島県に置かれた。ちょっと大雪が降ると、たちまち都市への物流は混乱する。civil engineeringが十分に役割を果たしていないことの現れである。それはcivilの誤訳から始まっている。 19世紀に西欧で文明論が盛んになり、日本でも福沢諭吉が『文明論之概略』(1875)で日本文明を西洋文明との比較において特色づけている。

 

 その後、和辻哲郎、梅棹忠夫などの先駆的研究によって、わが国の文明論、文明史観は世界的に高度のものとなったが、その後、第2次大戦による欧米との断絶により、テクノロジーや企業活動との生態学的追求が系統的に行われていない恨みがある。しかし、ここでの本題ではないので、宿題にあげておきたい。 文明の構成要素としては、大きな人口、効率的な都市、効果的な食料生産、効果的な産業生産、冶金から始まった合理的技術と科学の発達、支配的な芸術の様式、信仰・祭礼・記念碑的建造物、職業と階級の分化、富の所有・配分・再生産に必要な社会の統治形態・通貨などがあげられる。

  第2文明のパラダイムを創り出したのは、効果的な食料生産を可能にする灌漑農業のプロトテクノロジーの発明・出現である。以前にも触れた通り、このプロトテクノロジーは約7000年前に灌漑都市の形態をとって出現し、新しい社会と政治体制を、最初メソポタミア(今日のイラク)のティグリス/ユーフラテス川流域に、続いてエジプトのナイル川流域と印度のインダス川流域、中国の黄河上流域,長江流域に出現した。しかし、この灌漑帝国まで生み出した偉大なテクノロジーも、メソポタミアにおいては、ティグリス/ユーフラテス川の源流域に広範な岩塩産出地が分布しており、何万年にわたる間に、この流域の土壌には高濃度の塩分が含まれていた。 貯水池(ため池)を作り水路で配分する灌漑により水を散布すると、地中の塩分が塩の持つ浸透圧によって地表に滲み出し、水をやればやる程塩害が酷くなり、メソポタミアの灌漑農業は、世界最初の灌漑テクノロジーの発明者の栄誉を残して、メソポタミア文明とともに崩壊した。しかし貯水池(ため池)を作り水路で配分する灌漑テクノロジーは、以後7000年にわたり世界の農業の基盤テクノロジーとなっている。

 

 古代エジプトでは、麦類を中心とした畑作農業であることに変わりはないが、その灌漑はナイル川の氾濫を利用したことに特色がある。ナイルは毎年夏期にゆっくりと水位が上昇し、増水し、氾濫を起こす。これはウガンダのタナ湖に発する青ナイル川流域(約1600kmともいわれる)に降る春期の多量の降水が、ケニヤ/タンザニヤにまたがるビクトリア湖に発する、もともと豊富な水量を誇る白ナイル川と、スーダンの首都ハルツームで合流し、ナイルデルタに流れ込む。この氾濫は、日本や黄河などでよく見られるような濁流が一気に溢れ出て作物や家屋を押し流すタイプと異なり、ゆっくりと水位が上昇し、川から溢れ出す。この氾濫を耕地に誘導することによって土壌中に十分な水分が保水されるとともに、冠水期に営農が不可能であることを克服さえすれば、氾濫水が上流域から肥沃な土を毎年定期的に運搬してくれるという自然の恩恵に浴していることになる。エジプトは灌漑農業と治水との狭間で永く苦労して来たが、そのプロトテクノロジーを近代的なテクノロジーとして発展させることに成功していない。

 

  表流水の利用と制御に最初に工学的に挑戦したのはエジプトの王朝であったと考えられる。エジプトではBC9000頃農耕が始まり、BC4500年頃入植が始まり、BC3500年頃にエジプト原始王朝が形成され、その頃から灌漑農耕が始まり、パレスチナ、シリアなどいわゆる三日月地帯へ広まったといわれる。エジプト12王朝(BC1800年頃)のファラオ・アメンエムハト3世は、カイロの南東130kmにあるファイユーム・オアシスの湖に、洪水期の水を導入・貯水し乾期に使用するようにした記録がある。他にも堤防を築いた記録が見られる。浅学ながら、エジプト史をたどってみると、毎年起こる洪水を正確に予測するために天文観測が行われ、太陽暦が採用された。水理学の原初を産み出し、洪水が治まった後の土地の再配分のため測量技術、幾何学、天文学が進歩したこともわかる。

 1日を24時間としたのもエジプトであり、灌漑農業によって飛躍的に高まった生産性のおかげで蓄積された余剰の富を活かして、エジプト文明のユニークな発展をもたらしたことは確実である。エジプトの灌漑都市は、城壁をめぐらした古代都市の形態をとっていない。これは、三日月地帯にかかるメソポタミアが異民族侵入の経路であったのと比して、南に偏っていたのも独自文明を築くのに幸いした。20世紀になって構築されたアスワンダムは、ナイルの氾濫を治めたと評価されるむきもあるが、大規模な自然破壊の悪しき事例ともなっている。のみならず、農耕テクノロジーの進歩には寄与していない。 しかし、灌漑のためのプロトテクノロジーは、メソポタミア、エジプトにとどまらず、印度、中国においても、南米ペルーや日本においても、例外なしに、統治の機構として恒久的な機関、非属人的な政府を創設し、正真正銘の官僚を生み出した。それは出現の時期から、明確な古代的特徴ともいうべき、王朝的で、専制的で、律令的で、宗教的にも特徴をもつ第2文明のパラダイムを形成した。

 

また飛躍的に高まった生産性のおかげで蓄積された余剰の富を護るために常備軍を持たざるをえなくなった。 農業に関わるテクノロジーという点では、灌漑テクノロジーにたいして、灌漑を行わず、雨などの自然の降水(天水)のみで水分を供給して営む農業のことを乾地農業とか乾燥農業と呼ぶ。乾燥農業は、その名称とは裏腹に、年間を通じて農耕に必要な適度の降水を土地に保水できる地帯で、自然に農耕に取り入れられた。灌漑テクノロジーに比べて、低い生産性に留まり、連作障害を避けるために耕地の半分を耕作し残り半分を休閑地とする二圃式農業によって休耕地の地力の回復を図ることが行われた。西ヨーロッパやイギリスでは、18世紀に三圃式農業が行われるようになり、これをもって農業革命と呼ばれる。夏穀、冬穀、畜産飼料(ビート、ジャガイモ)をうまくローテイションを組んで作付けすることによって、連作障害を避けながら地力を再生させる農業テクノロジーである.その結果、西ヨーロッパやイギリスでは、畜産と農業の生産性が高まり、農業従事者人口が増えたといわれている。

  これによって、生産と流通の資本主義的な道が拓け、農業の近代化に役立ったことは歴史的事実である。農業の近代化、資本主義化に成功した国のみが、産業資本主義を経済的基盤とする第3文明のパラダイムへのシフトに成功しているのである 第2文明のパラダイムは、19世紀におこった近代産業テクノロジーの革新、産業資本主義、合理主義、近代民主主義の潮流などを特徴とする第3文明のパラダイムへと、大規模なシフトを起こした。 そして、いまや人類は、1950年代に端を発する情報と通信と制御のテクノロジーの革新によって、第4文明のパラダイムへのシフトを迫られている。  

 にもかかわらず、世界には、第2文明と第3文明とはいまだに併存している。それだけではなく、中国、ロシアを筆頭にBRICS諸国、中近東から東南アジアの国々の多くは、その統治機構、統治思想、自国の歴史認識において、第2文明のパラダイムに留まっている。  これらの国々が、王朝支配、貴族支配の統治機構の欠陥に自ら気がつき、自己変革に進むことがなければ、グローバルな危機は深まる一方であろう。 「ところで、皆さんデカンショって知っていますか」とあるレクチャで参加者に質問したことがある。

 もう10年程前になるが、当時30才代から50代始めまでの会合であった。 30人程の、いずれも有名大学の経営学部出身者で、なかに哲学専攻の修士、情報学関係の助教と経営学関係の講師が、それぞれ一人いた。驚いたのは、誰一人「デカンショ」を知らないのである。かつて大学生が酔って歌う戯れ歌にデカンショ節というのがあって、デカルト、カント、ショウペンハウエルを一纏めにして難解なものを意味し、難解な哲学書を読んでいるというエリ?ト意識をひけらかすものであった。知っていればどうなのかという程のことでもないかも知れない。

  しかし、私としては大きな不連続に直面して、ひどい衝撃を味わった。引き続いて質すと、かなりの人が、デカルトについて何も知らなかった。 第3文明のパラダイムの思想的中核を形成した合理主義やモダンとは何であったか、モダンを克服しようとしたポストモダンとは何であったか、そして今やいつの間にかポストモダンでもない何ものかへと、価値観の中核的思想が遷移しようとしている、すなわち第4文明のパラダイムへシフトしようとしているのに、その担い手たるべきこの人達とは、このパラダイムシフトについて議論すらできないのではないかという失望と断絶を感じたのであった。私の学生時代には、最早デカンショ節は飲み会でも歌われなかった。

 

サルトル(ポストモダン)が全盛といってよかったが、皆知らん顔で、デカルト、カント、ショウペンハウエルも読み、ヘーゲルもマルクスも読んで誰彼と出し抜く知的競争に熱中していた。企業戦士たちが世界一を目指して戦った情熱の基底には、そういう知的修練があったことを忘れないで欲しい。 ようやく第3文明のパラダイムについてふれたい。

 

VOL003 第3文明の出現とそのパラダイムへ 続く


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2.「ビジネス/ものづくりお役立ちマガジン」

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