キャリア・コンサルタント協同組合 風 巻 融
ガラパゴス諸島の生態系にみられる進化論的行き止まり、すなわちガラパゴスシンドロームから脱却するには、日本人がガラパゴスシンドロームになりやすい性質を持つ民族であることを自覚する必要がある。それは、日本語の形成過程に由来する。しかも、これは同時に、珍説といって良い程の異説・新説で もある。
しかし、私はどうしても、この珍説を展開してみたい。
第一に、ガラパゴス化は、テクノロジーの世界だけに生ずるのではないと思う。もっと広くあらゆる分野で、社会、ガバナンス、文化などのあらゆる局面で起こるものであろう。
しかし、これを進化学の厳密な学術的意味における進化にこだわれば、進化とは、生物個体群の性質が、世代を経るにつれて変化する現象にのみ用いられるべきでありとする、19世紀以降の定説に弓を引くことになる。これは進化学そのものが、生命科学の一翼として、未だに発展途上の科学であるからでもある。欧米では、古代ギリシャの哲人に始まり、何世紀にもわたって、「神のような超自然的存在の干渉による創造」とする宗教や歴史学、社会科学などをまきこんだ複雑な議論が続いた。21世紀の今日において、保守的なプロテスタントや保守的なイスラムは進化論を拒否しており、米州南部では高校の教科書から進化論を排除する法令を定め、裁判になっている。−−−− 従来型携帯電話機のことをガラケーと呼ぶらしい。ガラパゴスケイタイの合成語・省略短縮形である。テクノロジーにおけるガラパゴス化の状況は、いずれにしても、今後、克服してしまわないと日本の未来の道は拓けないという、深刻で、危機的な状況である。
通常、問題は解決したとしても正常性が回復されるだけで、進歩、進化には結びつかない(ドラッカー)。ガラパゴス化は、問題解決のアプローチでは克服できない状況であることに、まず、気が憑く必要がある。
したがって、第二に、進化と言った時は、生物の進化を指すのであるから、テクノロジーや社会や文化のそれではないとする定説が一般的である。にもかかわらず、現在の世界において、一般的に「進化」という言葉が使われている場合、学術的に厳密な「進化」ではなく「進歩・グレードアップ」というニュアンスで用いられ、本来の「進化」もそうであるかのように考えられている。大袈裟にいえば、厳密な意味での「進化」の法則の写像を、文明の進化・発展のシナリオに投影しても間違いではないではないか、とする考えに立つことである。
私も同様に、第二の考えに立つ。その上で、テクノロジーは進化するのか。言語は進化するのかを問うてみたい。私は、テクノロジーのガラパゴス化より以上に、日本語のガラパゴス化が心配である。
認識とか方法の道具・手段である言語は進化してくれないと困る。言語とテクノロジーとは密接な関係があった。これが私の異説の本題である。
過去から現在に至るまで、日本語の形成と進化において、飛躍的進化をした時期が三回あった。第一回は、中国からの第2文明のパラダイムが大量に流入した時期である。飛鳥時代から、奈良時代、平安時代にとくに集中した。先進国中国の文明が、途上国日本に堰を切ったように流入し、第2文明型のガバナンスの知識をうまく活用した勢力が、国内の覇権を握って行ったとしてもなんら不思議はない。
7世紀に遣隋使、遣唐使や留学僧らによってもたらされたものは、漢字だけではない。膨大な、漢文文書、そこに記載されている仏教やガバナンスに関する知識と、紙漉のテクノロジーを始めとする先進テクノロジーであった。『日本書記』によると、西暦601年に相当する年に、論語十巻他がもたらされたという。紙に記載された最初の文書であるとともに紙漉のテクノロジーももたらされたとされる。全国44ヶ所に公営の紙漉工房が開かれた。
この時から、日本語の苦難の歴史が始まった。律令に基づく法令、行政文書など全ては漢文によるものであったので、学問所が開かれ、官僚たちへの漢字・漢文・漢語教育が行われた。漢語は当然漢音による音読みであった。
音読みには呉音・漢音・唐音(宋音・唐宋音)・慣用音などがあり、それぞれが同じ漢字をちがったように発音する。たとえば、「明」という漢字を呉音では「ミョウ」と、漢音では「メイ」と、唐音では「ミン」と読む。「行」という漢字を呉音では「ギョウ」と、漢音では「カウ」(コウ)と、唐音では「アン」と読む。
日本への渡来は呉音がもっとも古いが時期は同時代史料が皆無であり不明である。ちなみに、万葉仮名は呉音であり、後の平仮名や「女房言葉」に通ずるとされる。漢音は7世紀に遣唐使や留学僧らによってもたらされた唐の首都長安の発音(秦音)である。唐音は鎌倉時代以降、禅宗の留学僧や貿易商人らによって伝えられたものである。
そこで考案されたのが、個々の漢字を、その意味する大和言葉に置き換えて読む漢文訓読の方法であった。これは、漢文を日本語の語順に近い順序に並び替え、必要な送り仮名を付して読む方法である。平安中期になると一語一訓の形が推奨され、室町時代には、現代日本語に近い形になった。しかし、日本語が漢字・漢語発想であることに変わりはない。
これを日本人の英知と呼ぶこともできるが、中国語がグレコローマン語族と同様のSVO型であるのに対して、日本語はSOV型の語順構成をとる。このことは、同時通訳の人達を苦労させているだけでなく、言語による認識・発想の過程が異なることを意味し、今後、先端テクノロジーなどの、国際共同開発の障害にもなる。
第二回は、江戸時代にオランダを通じ、細々と流入していたものが、江戸末期に、産業革命によって国力をつけ、第3文明のパラダイムを形成し始めた欧米からの文明の流入である。
明治期における欧米語の渡来に対しては、翻訳語を用いて欧米原産の第3文明のパラダイムの怒濤のような流入をうまく受入れ、産業の近代化とテクノロジーの飛躍的進化を遂げたように思われた。いずれも漢字・漢語に訳されたが、漢文訓読の原則は崩壊し、音訓合わせ読みも生まれた。たしかに、都合の良い選択的吸収と排除によって発展した。しかし、第3文明のパラダイムにとって、一番大切な啓蒙主義、民主主義を日本の伝統と相容れないとして排除してしまった。非常に大きな戦略上の誤りを犯し、自ら進んでガラパゴスシンドロームに陥ることになる。
三回目は、第2次欧米語の渡来と呼んでも良い。しかし、今直面しているのは以前の二回のときとは根本的に異なる状況である。テクノロジーや科学的知見は巨大化しており、とても翻訳では間に合わない。ブレーキになる誤訳も多発するであろう。第4文明のパラダイムへの移行はすでに開始してしまっている。半導体化とICT化、地球温暖化に対処するためのあらゆるテクノロジー分野の急激な革新がもう始まっている。翻訳が間にあわないなら、もとの言語をそのまま使うしかない。身近なものとしてスマートフォンがある。高知能電話機とでも翻訳できるが、スマートフォンという借用語があてられて、市場に投入された。たちまち現れたのがスマホという省略形であった。英語のsmart phomeは2シラブルであるから、これ以上省略のしようがないが、借用語を片仮名表記すると、7文字5シラブルで、これを長過ぎると感じる人がいても、わからないわけではない。しかし、こういうことばが日本語の中に蔓延るようなことは避けたいものである。ある種のシンボリック言語であるとして頑張る人もいるだろうが、そのためには外国人にも解る意味論的な正確さが求められる。またいきいきとした音の配列でもない。日本語をなんとかしなければならない。このままでは、第4文明のパラダイムを構築に貢献できない国に成り下がるであることが心配だ。
意味が正確で、いききと美しい日本に創りかえて行くことが必要だ。第4文明のパラダイムにおいては、一層のグローバル化が避けられないからだ。
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