キャリア・コンサルタント協同組合 風 巻 融
リスクとは、本来、疫学の用語で、基本的には確率とほとんど同じ意味である。通常、不成功確率の意味合いが強い感覚で使われる。「一〇年後の主力商品を産み出す新市場はなにか」と問われても、未だマスクされ、存在しないように見える市場ニーズを見極める不成功確率、すなわち、マーケティングリスクを示せといわれても、そう簡単に示しようもない筈である。答えのない問いにこたえろというのと同じである。
このような場合、先行リサーチにおける可能なスタンスは、マーケティングリスクを、”what could happen” というシナリオの成功確率を求める視点に立ち、なおかつ、テクノロジーリスクとのセットで、テクノロジーの ”what could happen scenario” を同時に追求するのが、唯一のアプローチである。これは、一つの哲学的アプローチでもあるが、テクノロジー開発にあたっては「はじめにニーズありき」とする信念を片時も忘れないスタンスで、「犬も歩けば棒に当たる」式の先行テクノロジーリサーチを行う覚悟が必要である。
この「はじめにニーズありき」と「犬・棒マーケティング」の念仏を、口を酸っぱくして唱えていたのは、私が勤務していたアドバンテスト社の創業者(創業当時タケダ理研工業)であった武田郁夫である。武田が口を酸っぱくしていっても、「あれは社長の念仏だ」と社員や銀行にいわれ、「誰もおれのいうことを解ってくれない」と社長は嘆いていた。
「はじめにニーズありき」は、武田が自らの経験に加えて、ドラッカーの《現代の経営》を読んで啓発されたものであった。そのことに気がついた私の提案で、主任以上の全員(当時約100人)に《現代の経営》を読ませた。果たして何人だ読み切ったかは不詳であるが、平行して行った勉強会の常連の顔を思い出してみると、20人は読み切ったと思われる。あわせて、「マーケティング委員会」なる定例会議をつくり、情報交換とマーケティングとテクノロジーについての思想統一を目的にした運営をはかった。社長に叱られたときの反応が変わって行った。
社長の商品開発への危機意識は強く、緊張感に溢れていた。社業は順調に伸びており、300人規模の会社は、すぐに1000人規模になりそうな勢いであった。武田の危機意識は、現在の商品構成では行き詰まるというものであった。折しも「支払遅延防止法」などという法律がつくられるほど、日本の資本主義は未熟な状態にあり、大手企業と言えども、いわば貧乏状態にあり、機械設備関係の支払には210日の手形が押付けられていた。
そういう状況下においては、先行リサーチと呼ぶにふさわしい主題(subject idea)を提案する者はなかなか出て来ない。しかし一方で技術革新の大きな流れは誰の眼にも明らかであった。電子産業は、電子管(真空管)の時代からトランジスタへ、そしてIC化、LSI化、VLSI化へと移行することは間違いのないwhat could happen の世界が広がっていた。この流れを機会として捉え、自社のコアになる技術を革新していかなければ、会社の将来はないという危機意識は高まっていた。電子デバイスの技術革新と平行して進んだのはデジタル化の技術革新であった。欧米では、第2次大戦期より、通信のデジタル化、デジタル電子計算機の研究・開発は組織的に行われたが、日本は大きく遅れていた。アドバンテスト社は、日本の電子産業の中では、ほんの小さな一角を占めるに過ぎないベンチャ中小企業であったが、これらの what could happen の先進情報と重要性は、社長をはじめ複数の幹部の耳には達していた。私は武田のいう「犬・棒マーケティング」の意味を最初に体感した一人となった。
「犬・棒マーケティング」とは、いろは歌留多の「犬も歩けば棒に当たる」をもじったもので、犬でも歩き回れば、偶然、棒に当たることがあるのだから、狙いを定めて、課題意識をもって歩き回れば、必ず金の棒ともいうべき価値ある情報に出会えるという哲学である。先行リサーチにとっての最重要のスタンスはこの「犬・棒マーケティング」のアプローチである。狙いを定めたり、課題設定をしたりするには、その方面の先進的な研究報告が良く掲載される学会報告の類いに広く眼を通し、より高みを目指して、自らの知覚力を高めなければならない。巾広い関心、自分の専門領域だけでなく、隣接領域、関連領域への目配りは非常に重要である。
アドバンテスト社は、電子計測器メーカーであった。1968年、コンピュータ、通信機、家電、自動車生産市場などのデジタル化の波に、挑戦的に取組むための、四つの開発プロジェクトをスタートさせた。のちに五つ目を追加した。
1, ICテスタ(ダイナミック・ファンクショナル試験による超LSIテスタを目指す)
2, ミニコンピュータ制御のデジタルデータ収録装置
3, デジタル周波数シンセサイザ
4, 半導体化周波数スペクトラムアナライザ
5, デジタルFFTアナライザ
の5プロジェクトであった。どういう市場に向けた、どういう商品かの説明は省略する。いずれも、ここでいう先行リサーチを十分に行った訳ではなかった。1964年頃から高まったデジタル化とコンピュータ化への対応という危機意識に追われて、組織的ではなかったが、単発的に先行リサーチはやっていた。そんな中で、1965年にDEC社のPDP-8(12bitミニコンピュータ)が、1967年にはHP社を始めアメリカの数社が16bit ミニコンピュータを市場投入して来た。もうぐずぐずしては居られないという想いで、社長に具申し、ミニコンピュータ応用の戦略を考えることになった。当時、電気試験所(現独立法人電子総合研究所)の電子計算機研究室長の相磯貞夫の知己を得て、いろいろ話
をうかがった。「風巻さん、コンピュータをコンピュータらしく使うにはどうしても32bitのアドレス空間が必要で、それを活かしたOSが不可欠です。自動車より安くなるといいんですがね。」という話であった。金の棒にぶちあたった感じがした。事実、後に32bitパソコンが出現してから本格的に使われ出した。このときは、今からでも間に合うという確信であった。
1969年にDEC社からPDP-11が発表されると早速2台を購入し、同社のHardware Familiarizatiomというトレーニングを何人かで受講した。OEMユーザーとして使いこなし、故障診断ができる程度の懇切な解説で、すぐにでも作ることができるほどのものであった。
1978年まで10年かかったが、32bit×16 general registerをもち、VLSIの試験に必要なtest vectorを生成でき、それを効率的に試験機本体に転送できる広帯域のバンド巾のI/Oを持った、高性能メガミニコンピュータをつくった。最後まで、試験実行制御部ということにした。当時の風潮として、技術屋もビジネスマンも、コンピュータを中小企業が作るなどという危険は冒してはならないという考えが支配的であったからである。
テクノロジーというものは、作って、動かしてみるまでは、それが作ることができて、役に立つかどうかの検証はできない。新しいということは、未だ誰も作った前例がないということで、どんなハードルや壁があるかが解っていない状態である。先行リサーチの段階では、概念だけのシステム設計、サブシステム設計、テクノロジー要素の設計、重要のセルレベルの設計を行い、テクノロジーの何を開発しなければならないか、想定されるハードル、壁がありそうなテクノロジー要素をできる限り詳細に書き出し、突破口的テクノロジーを担当させるチーム編成を想定する。チームメンバーの固有名詞は、プロジェクトの認可までは伏せ、必要能力の記載に留める。
これらの作業を、ブレーントラストメンバーにやらせる。メンバー数は、目標とする商品によって必要人数を決めればよいが、商品に使われる総部品点数や新テクノロジー要素数から割り出す等のやりかたがありうる。ある段階から財務関係のメンバーを加えることを忘れてはならない。
■□■□ _______________________■□■□