キャリア・コンサルタント協同組合 風 巻 融
『資本主義の終わりの始まり』の時代であるとする危機意識があることにふれた。その潜在的出発点は、原爆テクノロジーと、計算機械や通信機械のための電子デバイスとしてのトランジスタ(1948)の発明および集積回路(1960)の発明によって技術革新の競争に火がついたことと、第2次大戦後(1945年以降)の安全保障環境の変化(東西冷戦)によるものであった。知らず知らずの間に、時代は目的律に移行していた。
目的律の指導理念がないまま、テクノロジーもビジネスも法律も政治も、自らに都合の良い指導理念を創ろうとしていた。精密な論証は別の機会にゆずるとして、目的律へのパラダイムシフトが、雪崩のように始まったのは、1947年に始動した「マーシャルプラン」によるものであった。われわれ日本人は、「ポツダム協定/ポツダム宣言」も知らされないまま受諾したくらいであるから、遠い欧州でのできごとに対する関心も低く、「マーシャルプラン」に対する正確な認識もないまま、高校の世界史教科書にも正確な記述も無く、とくに、近現代史は高校3年の時間切れで教えられることも無いまま過ごしてしまい、第2次大戦後の20世紀後半を通じて形成された第4文明のパラダイムへの胎動が、この「マーシャルプラン」によって始動したことを忘れさせている。
「マーシャルプラン」というのは通称であり、第2次大戦によって被災した欧州の復興援助計画のことである。実質的な東西冷戦は、ドイツ降伏(1945年5月8日)に先立つヤルタ会談(1945年2月)とともに始まっていた。戦後の米国の最大関心事は、ブレトンウッッズ協定(1944年7月締結)によって、基軸通貨米国ドルの権威(1オンス=US$35.00の金兌換)を維持することにあった。ドルと各国通貨との交換比率を一定に保つことによって、自由貿易を発展させ、世界経済を安定させる仕組みが実現すると考えられていた。(この体制は、経済の安定よりも西側の経済の高成長をもたらし、経済、財政、貿易の規模が著しく増大し、米国の金産出・保有量が対応しきれなくなり、1971年8月15日、ニクソン大統領によって金兌換停止が行われるまで続いた)。
ドイツは降伏し、極東でも「大日本帝国」は降伏したが,中国では国共内戦が興り、ギリシャでは内戦が興り、ソ連はトルコのボスポラス・ダーダネルス海峡の自由通行権を要求し、ドイツ、ポーランドの分割、チェコやハンガリーやバルト3国への覇権を要求するなど、ヨーロッパの分割と自らの覇権の拡張に、対独戦争での占領地域で事を構える戦略を強めていたため、外交課題は山積していた。なかでも最大の外交課題は欧州の復興に、米国がいかに関わるかにあった。東西冷戦はすでに始まっており、ヨーロッパの東西分断の危機は目前にあった。米国務省は、パクスアメリカーナの路線をとらざるを得ない事ははっきりしていたが、後世のヨーロッパ諸国民から、アメリカのおかげでヨーロッパは東西に分断されたと、恨み言をいわれるようにはなりたくないという点で結束していたようにみえる。
冷戦の最中にあっても、6年にも及ぶ対枢軸国との戦争に勝利はしたが、いずれも米国外の戦闘で大勢の若者を死に追いやる苦悩を味わったアメリカの将軍達(ジョージ・マーシャル、ドワイト・アイゼンハウアーなど)には、たとえ小規模の紛争でも自国民の犠牲が生ずることは避けたいという意志が、政治家以上に強く働いていたのは、本当の事だったと思う。
そのさなかにトルーマン特別教書(1947年3月12日)が議会に送られ、ギリシャとトルコに軍事/経済援助を行うことの承認を求めるものであった。「もしギリシャとトルコが必要とする援助を受けなければヨーロッパの各地で共産主義のドミノ現象が起こるだろう」と主張した。トルーマン大統領による「共産主義封じ込め政策」宣言と内外から受け止められ、「共産主義封じ込め政策に同調しなければ、アメリカから援助が受けられない」という誤解が広まった。国務省はおおいに困惑した。事実、フランス、イタリアでは共産党が第一党を占めており、ドイツは米英仏ソの四ヶ国に分割占領状態にあって、報復主義的賠償請求の獲食にされようとしていた。米国内においても、戦後の復興計画の無い事を含め、国務省は、ドルとアメリカ経済の戦時経済から離脱・繁栄におおいなる危機意識をもっていた。
そういう内外の情勢をふまえて、以前よりハーバード大学から申し出のあった、同大学の200周年に事業として、国務長官ジョージ・マーシャルに名誉法学博士の学位授与したいという提案を授け、その記念講演において、欧州復興援助プランがあることを公にするとともに、欧州復興援助の公式の理念をかかげ、プランの国論統一を狙った格調高い内容を示すことにした。
マーシャル演説(1947年6月5日)は「米国の政策は、特定の国家や主義に対してではなく、飢餓、貧困、絶望、混乱に対して向けられている。その目的は、自由な制度が存在し得る政治的、社会的な諸条件の出現を許容するような、活発な経済を世界に復活させることである」。
「いかなる政府も、この復興事業に協力する気があるならば、米国政府の全面的な協力が得られることを保証しよう。いかなる政府も、他国の復興を妨害しようと画策するならば、我々の援助は期待できない」とし、「米国は欧州復興のために可能な限りの支援をするが、計画の立案は欧州自身が率先して行うべきである。」また、「計画は、欧州の全国家とは言わないまでも、相当数の国家の賛同を得た共同の計画でなければならない」とし 欧州の自主性を尊重しながらも動向を注意深く観察するといった内容が示された。
今日読み返して見ると、目的律の理念による、東西冷戦という安全保障環境の中で、戦勝国の利権を護るために力づくで構成されて来た大きな政治の図式が見えてくる。テクノロジーとビジネス開発、それに付随する時代遅れになりつつあった法理念、の四極を巡って、目的律のカオスが生まれた。民主主義と地政学的リスク(地域・民族・宗教・文化的蓄積などの複雑な対立要因)は、政治によって都合良く歪曲され、無視された。国務省にとって、戦争で破壊されたとはいえ、ドイツの潜在的工業力と石炭産出能力を活用することは、西欧復興には欠かせないものであった。
第2次大戦以前の欧州への輸出高は、米国の総輸出高の40%を超えていた。欧州の被災によって生じたドル不足による欧州への輸出が失われることは、米国経済にとっても由々しき問題になる。そこで、欧州が必要とする食料や衣料の供給力のある国は米国だけであるから、ドル援助を行う見返りとして同額の内国通貨を積み立てさせ、関税の大幅切り下げ行わせるとともに、ドルは米国産品のみを買わせる仕組みをつくった。経済統計を整備し、ITO(今日のWTOの前身)に報告し、その額を基準に援助額を決めた。これ(GDPの報告)こそソ連が一番嫌うことで、東欧圏諸国にも援助を拒絶させたため、欧州分断の責任はソ連が負うことになった。そうなれば、マーシャルプランは大成功である。保守正統派は、戦後米国で最も成功した政策と位置づける。
そうこうする中、1950年6月に始まった朝鮮戦争によって様相は一変する。経済援助は打ち切られ、MSA(1951年Mutual Security Act:相互安全保障法)による軍事経済援助に一元化した。マーシャルプランに言及したため、その解説に紙数が占められてしまった。
1980年、「ケ小平の白い猫と黒い猫」「改革開放路線(経済)」「先富論」(我々の政策は、先に豊かになれる者たちを富ませ、落伍した者たちを助けること、富裕層が貧困層を援助することを一つの義務にすることである。)によって世界は大きな誤解をした。ケ小平が何を目的にしていたのかは不明であるが、誤解していたことに気が着き始めている。
これは、マーシャルプランと逆のかたちの目的律の読み違いである。
■□■□ _______________________■□■□